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チュニジアの歴史
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保護領時代、第二次世界大戦とチュニジアの独立

シディ・ブ・サイド近郊の戦没者墓地
チュニジア近代は1881年5月12日にフランスがチュニジアを保護領と宣言した日に始まりました。自由立憲党のデストゥール党が1920年に創設され、続いて1934年にはネオ・デストゥール党が新設されます。1954年7月31日、チュニジアは国内の自治権を勝ち取り、1956年3月20日には完全独立を果たします。1957年7月25日にチュニジア共和国建国を正式に宣言し、ハビブ・ブルギバが初代大統領に就任しました。1987年11月7日のズィン・エル・アビディン・ベン・アリの大統領指名で新しい時代が始まりました。

リースと花

1942年11月から1943年5月まで連合国軍と枢軸国軍はチュニジア全土で戦火を交えます。アメリカ軍はチュニジアの地で初めてドイツ軍と直接接触し、カスリンの激戦で痛ましい敗北を喫します。英国軍を巻き込んだ激しい戦いが南部の旧フランスの防御線、マレスと北部のメジェズ・エル・バブで行われ、最終的に1943年ボン岬で枢軸国軍を決定的な敗戦に導きます。

これらの人類の愚行を忘れぬように、また失われた命を追悼するために12の第二次世界大戦戦没者墓地があります。イギリス人墓地が9つフランス人墓地、アメリカ人墓地、ドイツ人墓地が1つずつあります。

カルタゴのアメリカ人墓地には、軍全体の約4割の命が失われた北アフリカ戦線から本国に送還されなかった死者が眠っています。敷地内には幾千もの失われた兵士の記念堂があります。この墓地はきわめてよく手入れされており、北アフリカでの重要な戦地が記されました。詳細なモザイクの地図があります。

9つのイギリス人墓地には英連邦からの9704人の死者が眠っています。墓地はタバルカ、べジャ、ビゼルト、ボージュ・エル・アムリ、メジェズ・エル・バブ、ウーレッド・ゼルガ、ティリバ、エンフィダとチュニジア全土に散らばっています。