English - Chinese
Fair, and 81 ° F.

チュニジアの歴史
観光地
チュニジアに関する資料
チュニジアの歴史
チュニジアの歴史  |  フェニキア時代  |  ローマ時代  |  ビザンチン時代  |  イスラム時代  |  近代のチュニジアと第二次世界大戦
   
 

フェニキア時代

 

 3000年の歴史

古代カルタゴは地中海東岸のフェニキア人が紀元前1000年に、古代ユーティカに定住したときに始まりました。ディド、またはエリッサの名でも知られる女王が紀元前814年にカルタゴを建設しました。カルタゴは紀元前264年から紀元前146年に陥落するまでローマとの三度にわたる戦争を戦いぬきます。

 古代カルタゴ都市の宝石、ケルクアンが1952年に発見され、そのベールを脱ぎました

ケルクアンの浴槽跡

1952年、数人の考古学者が深いターコイズ色の海に沿ってボン岬の豊穣な農業地帯を歩いていました。

このとき後発の文明に破壊されずにすんだ、古代フェニキアの町の発見につながる遺跡の表層を発見しました。

 

翌年始まった発掘作業で見事なコイン、装身具、ガラス製品、陶器などが続々と出土しました。それに続き、作業員は中庭、洗練された屋内配管、きわめて保存状態のよい家庭用浴槽などを発掘しまし。

ケルクアンは今も古代フェニキアの日常生活の穏やかなリズムで、旅行者の想像力をかきたてる場所です。

女神タニトのシンボル

敵にも味方にも敬愛されたハンニバル

ハンニバル

カルタゴにおいてハンニバル(紀元前246年~同183年)より名の知れた将軍、政治家はいないでしょう。

ハンニバルは子供のとき、父親アミルカールと共にカルタゴからスペイン征服に出発し、義理の息子、ハズドゥルバルのもと、すぐれた兵士となりました。ハズドゥルバルの死後紀元前229年に、彼は古代フェニキア軍の総司令官に任命されます。その後直ちに、イベリア半島内で古代フェニキアの存在を拡大するための社会的、政治的プロジェクトを開始します。

ローマの度重なるスペインへの侵攻により、ハンニバルはローマに先制攻撃をしかけることを決意しました。スペインを218年に発ち、かの有名な象を使ったアルプス越えを経て、トレビア、トラジメノ湖、カンネーの戦いではローマ軍を次々に破壊していきます。ハンニバルが北アフリカのチュニジア中央に位置するザマで、紀元前202年にローマの将軍スキピオに敗れたときに戦争は終結しました。その後カルタゴは再興し、紀元前146年にローマに最終的に破壊されるまで繁栄が続きます。

 

残念ながら、ハンニバルとポエニ戦争について書かれた現存の文書はローマの歴史家によって書かれたものだけです。そうした事情にもかかわらず、ハンニバルは敵によってさえ偉大で人間味のある将軍として描かれています。 ハンニバルは兵士には略奪と破壊行為を禁じていました。彼はスピーチの際には常に神々に呼びかけ、敬っていました。家来には財宝を大切に保管することを命じており、金が欠乏したときもクロトーネ近くの女神ヘラの神殿にある金の柱を使用することを拒否しました。